だいたいストロングスタイルという言葉で思いつくファイトスタイルからすると、
(新日本で言えば)
真壁刀義・石井智宏・あるいは後藤洋央紀らこそそれにふさわしく、
彼らの誰かが「キング・オブ・ストロングスタイル」と呼ばれて然るべきではないだろうか?
しかしそうとも思い切れないのは、
そもそもストロングスタイルとはアントニオ猪木のことを指していたからである。
真壁、石井、後藤らが猪木に似ているかと言えば、百人中百人が「全然違う」と思うだろう。
そう、彼らと猪木は全然違う。
猪木もまた中邑同様、定番ムーブ・様式ムーブに充ち満ちたレスラーであった。 現役時代はともかくとして、引退後の猪木がリングに上がるとき、たいていの場合コスプレしていたのもよく知られている。
もし現存するレスラーで誰が猪木に最も似ているか、と強いて問われれば――
それは中邑を措いて他にない、と私は思う。 これもまた中邑が、「キング・オブ・ストロングスタイル」と呼ばれるゆえんの一つだと思う。
中邑こそが猪木の後継者であり、猪木の遺伝子は藤田和之でもIGFの選手らでもなく、中邑の中に最も色濃く流れている。
(ちなみに、藤田和之が「最後の闘魂継承者」と名付けられ、猪木の後継者扱いされてきたことに違和感を抱いてきた人も多いだろう。
藤田和之ももちろん鈴川真一も、猪木とは全然違うタイプのレスラーである。彼らはやはり真壁刀義らに近いと思う。)
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中邑は猪木に影響を受けた。
そのうち最大で極めて直接的だったのは、むろん総合格闘技(MMA)への出撃である。
今の新日本の三本柱――棚橋弘至、中邑真輔、オカダ・カズチカのうち、総合格闘技戦を経験したのは中邑のみ。 2000年代前半、プロレスラーがMMAに出場しては敗北していったあの時代、中邑はそこで勝利を得た数少ない選手であった。
「MMAに出て箔の付いたプロレスラー」というのは希少種であるのだが、まさに彼はその一人である。
そのハイライトは、
アレクセイ・イグナショフとの二連戦だったことに異論はあるまい。

中邑真輔vsアレクセイ・イグナショフ(第1回)
2003.12.31K-1・ナゴヤドーム〈中邑とアレクセイ・イグナショフのMMA戦〉
●第1回 2003年12月31日「K-1 PREMIUM2003 Dynamite!!」で対戦。
イグナショフは膝蹴りで中邑をダウン(これで鼻骨骨折)させ、レフェリーストップ勝利。
しかし中邑はそのときすぐ起き上がっていたため、カウントを取らずストップしたことに抗議。
後日「無効試合」となる。
●第2回 2004年5月22日「K-1 ROMANEX」で再戦。
中邑がギロチンチョークで一本勝ち。
中邑はMMA戦に勝った。勝ち越した。
(トータルでは3勝1敗・1無効試合。1敗した相手はダニエル・グレイシー。)
最近ファンになった人は、こんなことがあったことを知りもしないし、知ったところで意識もしないかもしれない。
(私もリアルタイムで知っていたわけではないが)
しかし、このことが中邑を「キング・オブ・ストロングスタイル」と呼ばせるようになった基盤の一つであることは、疑う余地がないように思う。
中邑はこれにより、「本当に強い」と実証できたことになった。 ※ただしこれは、MMAファンのみならずプロレスファンもまた、MMAがプロレスの上位概念である――「本当の強さ」が決まるのはMMAの場である――と認めている、ということになるのかもしれない。 その意味でアレクセイ・イグナショフ戦は、中邑にとって桜庭和志戦(2013年1月4日・東京ドーム)・飯伏幸太戦(2015年1月4日・東京ドーム)よりはるかにはるかに重要な試合――
人生のターニングポイントだったと言えるだろう。
(そしてアレクセイ・イグナショフは、若き中邑と戦った相手として(のみ)日本のプロレスファンの記憶に残るだろう。)
中邑がそういう運命を辿ったのは、むろんアントニオ猪木の導き(差し金)であった。
新日本のオーナーだった猪木の指令で、新日本のプロレスラーは総合の場へ出て行っては敗北を喫していった。
(猪木がユークスに保有株式を売却してオーナーを退いたのは、2005年11月)
その最大の「犠牲者」が永田裕志であるのは、読書系プロレスファンには重々承知の話である。
(現役のIWGPヘビー級王者としてミルコ・クロコップと対戦し完敗、再戦も敗北、さらにはあの「60億分の1の男」エメリヤーエンコ・ヒョードルとも戦って惨敗した。)
中邑は猪木の与えた試練(と言っておこう)を生き残り、それを糧にして上昇できた。
しかし、もしそうでなかったら?
もし、総合格闘技戦に全戦全敗してでもいたら?
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