本ブログでは、
「なぜイジメ自殺はよく起こるのに、イジメ復讐殺人は起こらないのか」を18回にわたって書いた。
私の言いたいことを、この際もう一度言う。ちょっとベランメェ調に言う。
だ~か~ら~、
「学校には行かなきゃいけない」「行くべきもの」なんて意識がある限り、
世間と社会がそんなである限り、
こういうことは未来永劫起こるんだよ。
なんでわかんねーんだよバ~カ。 この期に及んで、こういう記事を読んでなお、我々の真の敵が「身近な人間」であることを理解しない人間は、本気でバカだと私は思う。
「身近な人間」の脅威は、震災や放射能や北朝鮮など比較にならない大きさである。 我々は可能な限りそれを断ち切れる(断ち切りやすい)方向に、人生と社会を持っていくべきである。
学校や職場が簡単に抜けられるものとならない限り、
そこに集う人間が「繋がりのある仲間」だなんていう迷信を信じようとする限り、
イジメ自殺は永久になくなることがない。
何度でも繰り返すが、職場や学校や地域で一緒にいる人というのは、単なる偶然でそこにいるのである。
縁もゆかりもないのだし、「目に見えない絆・繋がり」などという超常現象が存在するわけがないのである。
学校でイジメがあればさっさと辞める、他の学校に移るなり自学自習なりなんなりする。
そういうことが簡単にできる社会――
国家も職場も学校も解体し、個人個人がバラバラに勝手に生きる社会でこそ、イジメはようやく根絶される。 これは決して夢物語を言っているのではなく、むしろ未来の正確な予言なくらいだと思う。
国家も、職場も、学校も、いずれはなくなるものである。人類はそういう方向に進んでいく。 あなたは「いや、そんなことはない」「そんなことはあってはならない」「あってほしくない」と思うだろうか?
もしそうならあなたは、
西暦5000年になってもまだ、国家・職場・学校が今のような形で存在していると本気で思っているのだろうか? そうあってほしいなどと願うのは、度外れた異常な保守主義者と言うべきではないか?
たぶんそういう人たちというのは、国家・職場・学校などに愛着を持っているのだろう。
それが大事だと思っているのだろう。
今の国家が成り立つまでにどれだけの血が流されてきたか、
学校制度ができてみんなが教育を受けられるようになるまでにどれだけ先人の苦労があったか、 そういうことを強調するに違いない。
しかし、古代中央アジアの遊牧民の族長のために死んだ戦士だって大勢いた。
どこかの国王、封建領主、主君のために死んだ人――それも望んで死んだ人は、おびただしい数にのぼる。
江戸幕府ができて太平がもたらされるまでに、どれだけ戦乱の時代が続き大量の血が流されたか、知らぬ日本人はいない。
活版印刷の発明以前、本は手書きで写されていた。それにどれだけの苦労・労力が費やされたかは計り知れない。
では我々は、そうだからと言って、族長制だの封建制だの今まで存在した国家・王朝の数々が全て保存されるべきだったなどと、真面目に思っているだろうか?
江戸幕府は続くべきだったし、今でも本は手書きで作るべきだと正気で思う人がどれだけいるか? なるほど学校制度(国民皆教)の構築と維持には、明治以来ものすごい労力と熱意が投じられてきたのだろう。
しかし、それだからいつまでも守るべきものだとするのは、
せっかく資金を投じてきた明治以来の生産ラインを、今後も永久に使おうとするようなものである。
要するに、株でいう「損切り」できず、設備を一新することもなく、今のままであることが正しいとする心性。
こんな会社がいつかは破綻するだろうことは、別に経営コンサルタントでなくたってわかる。
そして「やっぱり学校には素晴らしい点があるのだから、なくしてはいけない」と言うことは、
つまるところ「イジメ自殺はやむを得ない少数の犠牲である」と言っていることになる、と私は思う。 学校に素晴らしいところがある/楽しい面がある、ということは私も認める。
しかしそんなのは、学校がなくたって勝手に味わうことができる。
気の合う者どうし勝手に繋がり、勝手にそれぞれ楽しめばよい。
本当に、何が何でも「繋がっている・集まっていることが正しい」とする集団主義者は、地球上から絶滅させるべきである。 コーラン風に言えば、
「まこと集団主義者は悪しきもの。おまえたちは知らないのか、人間関係が人に破滅をもたらすことを。
それから抜けられない者が行き着く先は火獄(ジャハンナム)、また何と悪い場所ではないか」 といったところだろうか。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
コメントの投稿