
知花くらら(ミス・ユニバース2006世界大会第2位)
宮本エリアナ(20) ミス・ユニバース2015日本代表
ミス・ユニバース日本代表2015ファイナリスト(2015.3.15) 1990年代には、ミスコン(ミス・コンテスト)に反対する意見と雰囲気が、けっこう社会の表面に出てきていたと思う。
女を顔(やスタイル)で採点するなど女性蔑視だ、人を容姿で判断するのは道徳的に許せない、それは差別だ――
そんな意見がかなり広まっていた印象がある。
だが今、そういう意見を目にし耳にすることはほとんどない。(あるにはあるが)
各大学でのミス・キャンパスをはじめ、ミス・ユニバースに至るまで、ミスコンは相変わらずあちこちで開催されている。
いったい、かつてのミスコン反対派はどこへ行ってしまったのだろう。
わずかにその影響力の残滓が見られるのは、かつてなら「ミス○○」と言っていたところ、「○○プリンセス」「○○レディ」と名称変更されているのが多いくらいだろうか?
どこどこ大学のミス・キャンパスは誰になった、エントリーしたのはこの人たち、とかいうニュースはネットでよく話題になる。
ミス・ユニバースに至っては、その日本代表が誰に決定したなどという報道は昔よりはるかに盛んなほどである。 テレビなど代表的なメディアを見る限り、ミスコン反対派は影も形もないと言える。
彼ら(彼女ら)はどうも、マイナーなアングラ系の活動家になってしまったようである。 私はこれを、フェミニズムが美人資本主義に圧伏され駆逐された一例だと思う。
ミスコン反対派は、美を好み・美を求め・美に価値を与える世間の雰囲気に負けた。
もっと言えば、そういう人間の本性に負けた。
ミスコン反対の意見は、世間の雰囲気も人間の本性も変えるに至らなかったのである。 今の日本人は、「ミスコンは女性差別、けしからん」と主張をする人を「痛い人」と見るようになった。
そんなのは見苦しい人であり、あまり関わりたくない変人と見なすようになった。 それはあたかも、怪しげな新興宗教の信者を見るような目線である。
しかもなお、当の女性たちまでがそういう雰囲気に包まれている。
これは、共産主義が資本主義に負けたのと非常に似ている。(そんな見方は短絡的だという人もいようが、別に短絡的ではないと思う。本当のことを短く言っているだけだ。)
共産主義もまた世界を二分する一大勢力となりながら、ついに世界の雰囲気と世界人民の本性を変えることはできなかった。
そしてもう一つの共通点は、共産主義もフェミニズム(ミスコン反対)も、潜在的にはまだまだ支持者が多いに違いない点である。
人間は平等であり、貧富の差があるべきではない。財産は人民の共有であり、誰もが享受できるものであるべきだ――
これに共感しない人間は、むしろ少数派ではないだろうか?
同様に、
人を容姿で判断・格付けすべきではない。美人とブスを差別するのは道徳的に許されない。「ブス」自体を言うべきでない――
それが正しいとみんな思ってはいるのである。テレビカメラやマイクを向けられれば、全員がそれに賛成するはずなのだ。 が、人間は己の好みと購買行動には正直である。
人は誰しも美人を好む。(女性もだ)
心の中で美人とブスを差別する。
もちろん美人に――美人を扱ったコンテンツや美人が宣伝するものに、カネを払い注意を払う。
それが人間の本性であり本能である。
たぶん今でも、ミス・キャンパスの開催やミス・ユニバースの報道に接するたびに「こんなのなぁ」と思っている女性は多いのだろう。
しかし彼女らは世の雰囲気に取り囲まれてそれが言えない。
言えば「痛い人」と見られるだろうと知っている。そうなるのを嫌がっている。
(
「ミスコンに反対する奴って、ブスだろ」と言われるに違いないこともわかっている。)
そして雰囲気は個々人の心を変えるし作り出しもする。
かつてミスコンに批判的だった脳ミソも、それが行われるのが当たり前に感じるようになる。
批判する方がおかしい/痛いことだと思うようになる。
美人資本主義と「美の専制」は、こうして世間を覆ったのである。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
コメントの投稿