日本のプロレス評論家・プロレス史家の中でも頂点に位置する流智美 氏の新著、『新日本プロレス50年物語 第1巻 昭和黄金期』について、スポーツ報知にインタビュー記事が掲載された。
(⇒ 2022年11月25日記事:「猪木のピークは74年」アリ戦で失った美しい「起承転結」…「新日本プロレス50年物語」著者・流智美氏に聞く) ここで流 氏は、
「1974年のアントニオ猪木は、ただひたすら素晴らしかった。我々ファンがひれ伏すだけの1年だったんです。この年の猪木がピークなのは間違いない」
とまで言っている。
1974年の猪木と言えば、31歳。
これは確かに、プロレスラーとして絶頂期にあると言っていい年齢である。
私はこの頃の猪木をリアルタイムで見ていたわけではもちろんないが、このころが全盛期だというのは、一般常識からしても納得できる。
(しかしレスラーの長寿命化が進んだ現在、プロレスラーの絶頂期とは30代後半~40代前半と認識されるようになっているが……)
だが、それよりも興味深いのは、「アリ戦以降、猪木のファイトは明らかに精彩を欠いた」とする流 氏の次の論評(印象?)だ。
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アリ戦の後のグダグダの試合は、僕としては見ていられなかったです。
試合中に蹴りを繰り出すと、お客さんが『アリキックだ!』と沸くわけです。
そこに猪木さんが引っ張られて、ウケを狙ってしまい、試合のリズムがめちゃくちゃになったと思います。
アリ戦で得たものも大きかったけど、実は失ったものも大きかった。
アリキックがなかったころの、美しい『起承転結』を見せていた頃の猪木が、僕にとっての全てですね。
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アントニオ猪木と言えば、何よりもプロレスを舐められるのを嫌った人物として知られている。
絶対に客に媚びるな、というのを信条にしていたプロレスラーとのイメージがある。
しかし流 氏の見るところ、アリ戦以後の猪木は(意外にも、アリキックという「技」で)客に「媚びていた」――と言うのが言いすぎなら、客ウケを進んで狙っていたということになる。
ありていに言えば、ウケ狙いで客に迎合するようになったということになる。
そういえば猪木は、あれだけ「媚びない」「舐められない」ことを大事にするプロレスラーというイメージがありつつも、しかしいつの間にか「ダー」とか「元気ですか!?」とか、著しく「芸人化」していったことでも知られている。
それにはどこかにターニングポイントがあったわけで、それが流 氏にとってはアリ戦だったということだろう。 ただこれは、猪木というよりプロレスラーの宿命のような気がする。
プロレスとは何か、という命題は、デビュー50年を過ぎた藤波辰爾ですら「まだわかっていない」と言うほどの難問である。
しかし他ならぬアントニオ猪木が、その一つの答えを出してもいる。
いわく
「プロレスとは、興行である」と――
アントニオ猪木はもちろんプロレスラー、それもプロレスラーの中のプロレスラーであるが、同時に――こういう言葉はないが――格闘家ならぬ
「興行家」でもあったのだと思う。
興行家のミッションと言えば当然「客を呼ぶ」ことであり、それはつまり「客ウケする」ことに他ならない。
興行家の猪木としては、客ウケするならそれは「やらぬばならぬ」ことだった、しかもそれで自分も気持ちがノッてくるのだから、やらない法はないというところだったろう。
とはいえ、アリ戦以後の猪木がそれだけだった、ということでもないはずだ。
最近多忙で流 氏の著書も読んでいないのだが、こんな紹介記事を読むと「アリ戦以後」の猪木をどう書いているのか、という興味が起こらないではいない。
そしてもちろん、興行家とプロレスラーを兼ねたアントニオ猪木への興味は、その死後も薄らぐことがない。
流 氏にとってもプロレスファン全般にとっても、あの昭和の時代――猪木と馬場のいた時代――は、興味尽きせぬ時代だったのだ。
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