「プロレス」という言葉が国際政治や国内政局の場でしばしば使われるのは、プロレスファンならずともよく知っている。
もちろんそれは揶揄や「出来レース」「馴れ合い」「裏で話ができている」という意味で使われており、そのたびにプロレスラーやプロレスファンを不快にさせている。
(⇒ 2022年1月13日記事:テレビや記事で「これはプロレス」と聞いたとき思うこと) さて、そんな意味でプロレスという言葉を使うことが許されるなら――
最近にわかに浮上してきた
「論破王ひろゆき」と「暴露王ガーシー」の抗争を「プロレス」と呼ぶことは、それ以上に許されてしかるべきだろう。
元2ちゃんねる創設者にして、いまや現代日本を代表する大論客、“論破王”の称号を奉られたひろゆき。
対するは暴露ユーチューバーとして、ついにドバイ在住のまま参議院議員となった“戦慄の暴露王”ガーシー。
これがいかにもプロレス的な、そうでなければ商業格闘技的な抗争・マッチメイクに感じられるのは、何もプロレス・格闘技ファンだけではないはずだ。
ハッキリ言って今、本物のプロレス界でどんなカードが組まれたとしても、この「ひろゆきvsガーシー」ほど注目を集めることはない。
朝倉海vs那須川天心のカードでさえ、これには一歩も二歩も譲る。
特にガーシーの方は国会議員でありながら、
「ひろゆき本人じゃなく奥さんを狙う。
脅迫と言われたってオレはドバイにいるんだから屁でもない」
とうそぶくところは、まるで「ベルトを持ったヒール王者」そのまんまである。
私は正直、ガーシーの暴露YouTubeチャンネルを一度も見たことがない。
ひろゆきの方は、ネットを開けばよく目にする、
例の「ひろゆきが呆れる」シリーズの記事を一つか二つ読んだことがあるだけだ。
よって、この二人の「レスラー」の普段の力量がどんなものだか、ほとんど知らない。
しかしそれでも感じるのは、今の本物のプロレスは、この2人の抗争ほど世間に響くことはないだろうということだ。
これは確かにプロレスファンにとって、悔しくも悲しい事実だろう。
アントニオ猪木がもっと若ければ、こんな今の状況を見てどう思うだろう。
しかし私は、同時にこう思いもするのである――
たとえプロレスが滅んでも、世に「プロレス的なもの」は不滅であると。
そして世にプロレス的なるものが続く限り、やはりプロレス自体も生き続けるだろう、と。
うまく言うことができないが、この人間世界にプロレスというものはもはや染みついているのではないか。
人間世界からプロレス的なものを抜いてしまうと、もはや人間世界でなくなるのではないか。 ヒール王ガーシーがひろゆきの妻に繰り出す、たぶん凶器のごとき攻撃とは、いかなるものか。
ひろゆきはそれに、正統派(良識派とも言う)王者のように対抗するのか。
あるいは目には目をで、自分までヒールのように応戦するのか(これもプロレスの試合ではよくあることだ)。
プロレスファンには全てがプロレスに見える、そう解釈する業病に罹っている……
と言えばそれまでだが、それでもやはりこの2人の対決は、どうやってもプロレスに見えるのではないだろうか。
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