そう、どだい一人の人間が、何でもかんでもやれるわけがないのである。
一人の人間が何にでもかんにでも適性を持っているはずもなく、何でもやれる能力を備えているなどさらにあり得ない。
それはまあ、何だって「やること」自体はできるだろう。
バックオフィスの事務処理も営業回りも、与信管理も施設管理も、秘書やマーケティングや広報も、あなたはやれと言われればやる。
現実にそういう人事異動がなされてもいよう。
学校教師も勉強を教える以外、生活指導も部活顧問もその他諸々のいかなることも、やれと言われればやるのだし実際やろうとしてはいる。
しかし、その全てについて質を求めるのは無茶である。
こんなことは考えるまでもなく明らかなのだが、しかし人は他人にそれを求めて当然とする。
何でもかんでも手を出す人が成功するわけがない、とは誰でも思う。
何でもかんでも中途半端になるのがオチだと誰にでもわかる。
わかっていながらそれで成功しろ、成果を出せ、一定水準をクリアするのが当たり前のことだと言う。 こんなことを部下に求める人間が上司や経営者であるのは悲劇である。
悲劇と言うより、彼らをその地位に値しない失格者と決めつけてもいいだろう。
しかしそうすると、日本人のほとんどは上司にも経営者にも向いていないことになる――
そしておそらく、それが正しいのだろうという救いのない結論に達してしまう。
日本人は「上」に行くほどダメになる、とはよく言われる。 (あなたも聞いたことがあると思う)
旧日本軍について他国が、「上層部はてんでダメだが下士官・兵卒は優秀」と評したことも有名である。
これはしかし、「貴族はダメだが庶民はすばらしい」などという大衆迎合的階級論的解釈をすべきではないだろう。
要するにたいていの日本人は、「上」に進級するほどダメになっていくことをこう評しているのである。
優秀だった下士官も兵卒も、同じ人間なのにもかかわらず、将官などになってしまえばどうしてか劣化してしまう。
(もっともこれは
、「有能な下っ端はいずれ能力の限界まで『上』に進級する。無能な下っ端は下っ端のままでいる。よっていずれは組織全員が無能化する」 という 「ピーターの法則」 そのままである。だから、特に日本人に限った話でもないことになる。)
いま「上」にいる人たちは、何でもかんでもやってきた(やらされてきた)人たちだろう。
よって当然、部下にも自分と同じ道を歩ませたがる。それが正しいと思っている。
虐待を受けて育った人間が自分の子どもを虐待するようになるという、これまたよく知られた現象と極めて似ている。
しかし彼らは、確かに何でもやってきたかもしれないが、その何についてでも高いパフォーマンスを見せてきたわけではないだろう。
そんなことは万能の天才でもなければ無理だ。
もしそんな人がいれば、最初から年収1000万円でも安すぎるくらいである。
彼は万能の天才ではないし、後に続く者もそうではない。周りにもそんな人はいない。
私はここで、非常にミもフタもないことを言う。それはこうだ――
もし、何でも高い水準でこなせるような万能天才型の人間がいるとすれば、どうして彼があなたと同じ場所にいると思うのだろう。
何であなたと同じ職場に、学校に、部活にいると思えるのだろう。
そういう人があなたの近くにいるはずがない。あなたと接しているわけがない。
彼はもっと「高い」場所で、あなたとは関わりのない場所で生きているはずなのである。
これは別に森嶋猛へのオマージュではないのだが、大事なことなので2回言う。 もしあなたの上司・先輩・同級生、同期や部下がそんなにも「上」であるならば、どうしてあなたと同じ場所にいるのだろう。
どうしてあなたの職場なんぞで、あなたと一緒に働いてなどいるのだろう。 われながら思うのだが、これは反論しようのない理屈/疑問ではないだろうか。
そしてまた、身近な連中のパワハラ・イジメに対抗する――彼らが自分より「上」であり、逆らうことが不道徳だと思わないための――強力な心理的盾であり反撃手段でもあるのではないか。
また逆に、いま「上」にいる人にとっては、「下」に対する慢心・傲慢・無茶振りへの戒めにもなることだろう。
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