プロレス界の2021年最初にして最大のビッグマッチ、
新日本プロレス1.4&1.5東京ドーム大会を、テレ朝チャンネル2で見た。
まず1.4の観客数は12,600人超で、当然ながら近年の最低を記録した。
しかし余人はいざ知らず、私はこんなコロナ第三波の猛威のときに10,000人も入るとは思っていなかったので、まずこれが驚きだ。
しかも画面を見る限り、「よく入っている」ように見えるのである。
客の数が多く見えたら逆に心配になる、というのは珍現象というか、これが興行のニューノーマルだろうか。 それとも、プロレスファンの底力恐るべし、といったところだろうか……
それはともかくこの2連戦のキモと言えば、むろん(ついに)飯伏幸太が――
1.4には王者の内藤哲也を破り、1.5には予約済挑戦者のジェイ・ホワイトを連破し、
IWGPヘビー級&IWGPインターコンチの2冠王者に、つまり新日本の頂点に立ったことだろう。
ちょっと横道にそれると、最近のIWGPヘビー級はインターコンチとセットであるのが普通の光景になっている。
まるでこれは、かつて物理的に3本のベルトがあってそれがセットで扱われていた、全日本の三冠ベルトの新日本版――
全日本の三冠戦に対する「新日本の二冠戦」のような様相を呈している。
いずれこの2本、今の全日本のように本当に統一されて1本のベルトになってもおかしくはない。
(しかし、そうはならないだろう。それじゃ全日本の二番煎じになるし、三冠に比べれば1本少ないぶん格が下がると見なされてしまうからである。)
さて、話を元に戻すと――
皆さんは飯伏幸太のこの戴冠について、どう思われただろうか。
飯伏幸太はかつて棚橋弘至を「神」と呼び、それを越えるため新必殺技「カミゴェ」を開発し、
最近は自分自身が「神になる」と言い出し、とうとうこの1.5のジェイ・ホワイトから勝利後には、「神になった!」とマイクで叫んだ。
令和のこの時代、天皇の人間宣言ならぬプロレスラーの現人神宣言である。
私の率直な感想を言うと、
この神宣言すなわち飯伏の新日本の頂点到達は、いささか遅すぎたのではあるまいか。 飯伏幸太はもう、38歳である。内藤哲也と同い年である。
あんな若々しい顔立ちだから意外にさえ思うが、それが真実だ。
それを思うと、40歳まであと2年未満しかないのにやっと新日本の頂点に上ったというのは――
オカダ・カズチカと比べるのはもちろん筋違いにしても、あまりに勿体なくはないだろうか。 飯伏幸太が新日本に初めて所属したのは、2013年10月である。(従来のDDTと新規の新日本の、史上初のダブル所属)
それが体調不良などで2016年2月にいったん新日本を退団し、以後は「飯伏プロレス研究所」として活動。
2018年4月には新日本のIWGPインターコンチ王座を、12月には新日本のNEVER王座を獲得し、
その後の2019年4月に新日本に再入団したことが明かされた。
正直私は、飯伏が最初に新日本に所属したとき、その2~3年後くらいにはIWGPヘビー級王座に就くんだろうなと思っていた。
しかしどうしてどうして、それが現実になったのは彼が38歳の2021年初頭であった。
男子プロレスラーとして最も充実した時期とされる30代前半に、飯伏がIWGPヘビー級王座に就かなかった・就けなかったというのは、現代プロレス史のちょっとした「IF」になるのではないかと思われる。
もし飯伏がもう3~4年でも早くIWGPヘビー級王者となっていたら、プロレス史はどうなっていたかというIFである。(そして、もし飯伏がWWEに行っていたら、というIFもある。)
この「なぜ飯伏幸太ほどの選手が、EVILよりも遅れて新日本の頂点に立つことになったのか」問題について、私には答えがない。
もしかすると、よく伝えられる飯伏の「実務離れした性格・行動」が要因なのかもしれない。
しかしこれも現実であり、人間の人生である。
これほど若いときから群を抜いた逸材と目されながら、日本プロレス界の頂点に立つのに38歳までかかるという――
「遅咲きの王者」になるのもまた、飯伏の人生であり道だったということなのだろう。
ところで1.5のEVIL vs SANADAのスペシャルシングルマッチ、飯伏 vs ジェイの二冠戦は、
いずれも絵に描いたような勧善懲悪マッチであった。
そして二冠王者・飯伏にスーツ姿でものすごく紳士的に挑戦表明したのは、EVILに勧善懲悪で勝ったSANADAであった。
つまり次の二冠戦は、飯伏幸太とSANADAという善玉同士の対決となる。
たぶん観客の多くは、もし内藤がジェイを迎え撃つならジェイが勝ち、飯伏がジェイを迎え撃つなら飯伏が勝つと思っていたろう。(そしてそのとおりとなった。)
やっぱりこのコロナで大変な時代、卑怯者殺法で君臨する王者なんて(いかにジェイが上手かろうと)需要がないものである。
昨年よりさらに大変になるかもしれない今年の幕開けは、明るい善玉王者で迎えたいものである。
そして確かにSANADAが言うように、次の王座戦は――
なんだか希望を感じられるような、善と善のクリーンな、熱くとも清涼感を覚えるような光景を見たいものである。 新日本も、そのようなことを考えているのではないだろうか。
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