私は、学校の先生になりたがる人がまだ存在することは、現代日本の七不思議の一つだと思っている。
それは驚異的なこととも言える。
これだけイジメのニュースが連日報道され、その全てのケースで教師と学校がボロクソ非難されるというのに、どうしてそんな地雷原にわざわざ職を得ようとするのか。 なるほど、どんな職に就こうともどこかに地雷は埋まっていよう。クレームを付けられる種はどこにでもあるだろう。
しかし学校教師という職は、他のどの職よりもその可能性が高いと思える。
少しでもネットでニュースを見る人なら、ほんのちょっとの想像力があるのなら、そんなことは簡単にわかりそうに思える。
わざわざ望んでカンボジアの郊外を散歩しようとする人、イスラム国の支配地域へ旅行に行こうとする人に見える。
もしかしたら教師志望者とは、情報弱者なのだろうか。リスク管理意識がないのだろうか。
たとえ他人には起こっても自分の身には起こらないと思う人、そういう目に遭う実感を覚えられない人なのだろうか――
そんなことさえ感じてしまう。 資料編の事例(4)で、教師はイジメ防止のためにクラスの生徒全員の指紋を採った。
私はこれが、実効性のある措置だったとは思わない。
どうせ自分で指紋照合はできないのだし、それをするなら警察に持っていくしかない。しかし警察はそんな分析を断るだろう。
だったら指紋を集めたって何にもならない。
しかしこの教師は、ともかくもイジメ防止のために何らかの行動を起こした。
そして指紋集めは実効性はないだろうが、確かに抑止効果はあると思う。
自分に足が付くかもしれない、そう思うだけで物理的なイジメを止める子どもはいると思う。(手袋を嵌めてやればいいのだが、たったそれだけのことでも「そこまでしてなぁ……」と気が引けるところが人間にはあるのだ。)
ただし、指紋を採るというのはやはり下策と言わねばならない。
人間は(日本人は、と言うべきかもしれない)、指紋を採るということに無条件に反感を掻き立てられるのである。 それは、人を犯罪者扱いする人権侵害と容易に受け止められる。
かつて在日外国人の「指紋押捺」がそういう風に問題にされたことを、覚えている人も多いだろう。
(だから私は、仕事で文書を出す時も「捺印をお願いします」と書かず「押印をお願いします」と書く。
「捺」という漢字と読みには、どこか日本人の心に悪くセンシティブに響く――という雰囲気があると思うからだ。) だが、これが下策と言うのなら、他にどんな方法が考えられるか。
おそらく大多数の人が挙げるのは、端的に言って
「精神訓話で生徒たちを改心させよ」ということである。
人はそれが教師の使命であり仕事だと言うだろう。
それができなきゃ教師じゃない、教師の資格と能力がないとか言うだろう。
しかしそう言っている人は、普段は「精神訓話」なんてバカにしている人たちである。
「精神論」という言葉を、他人に対する批判・悪口にしか使わない人――「精神論=悪」と思っている人たちである。 そしてまた、学校教師を教会牧師などと同じに見なしている人たちとも言える。
言うまでもなく、教師とは学問・勉強を教える人である。その専業者であるべきである。
魂を善導するなどということは、決して彼らの専業でもなければ得意分野でもない。
そりゃできるに越したことはないだろうが、苦手だからといって別に苦にする/非難するようなことでもない。
しかしなぜかこの日本では、教師とはそういうことをすべき職業と見なされている。
「学校の先生は、勉強を教えるだけの存在であってはならない」とするのがスタンダードな意見(雰囲気)でさえある。
これは学校教師に限った話ではないが、どうも日本人は
「何でもやって当然、何でもやれなければならない。何でもやることこそが『仕事』」
とする観念が、非常に(異様に)強いようである。
(ただし、ここでも「自分だけは例外」原則は働いている。)
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