思うに、イジメ・パワハラが起きる原因の根底にあるのは「繋がり」である。
それらは身近な人間の間で、同じ組織や団体にいる「仲間」であるからこそ生じる。
「自分だけは例外」の他にもう一つ人間の本性を挙げるとすれば、それは
「人間関係が生じた途端、どっちが上か下かを意識せずにいられない」というものである。
そして特にこの日本においては、上下関係がことさら美しいものとされている。
上下関係は人間社会にあるべきもの、守るべきもの、美しい道徳的なものだとされている。 いやしくも民主主義と人間の平等を「正しい」とする社会にとって、これは全くあるまじき雰囲気である。完全に矛盾してもいる。
しかし我々は、そういう矛盾をなぜか受け入れている。両立するものと考えている。
(するわけないのだが) 相手が「仲間」だったら、「身内」だったら、「下」だったら、自分は横柄に振る舞ってもよい。 そういうことが許されるどころか普通であり、むしろ「正しい」上下関係道徳を維持奨励・強調するには好ましいことでさえある。
いったん自分の属するヒエラルキー(序列・階層)に入った者は、そのヒエラルキーに従った地位にあらねばならない。
そうしないのは反道徳的・反社会的な人格である――
上司から部下、先輩から後輩へのパワハラを支えているのがこうした意識であることは、否定できないと思われる。
なんとなれば、イジメのターゲットになる人間本人も、こうした意識(雰囲気)を共有しているからである。
そういう雰囲気に反抗するのは「よくないこと」「自分が悪い(かもしれない)」と本人に思わせるからである。 そしてこれが社会全体に拡張されると、「客」は上であり従業員は下だということになる。
客にへりくだるのは商売上の便宜・戦術であるはずなのだが、どうしてかそれが道徳となり守るべき規範となる。
ここでも「人間の平等」と「上下関係」という、両立し得ないものが両立するとされている。
それどころか後者の方が重いとまで解される。
もちろんこれこそ悪質クレーマーの拠って立つ基盤であり、その相手をする者が逆らえない/逆らってはならない(と感じる)理由となっている。
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職場や学校は、我々の生活の全部を占めているわけではない。
そこでの付き合いは、そこだけのものであるはずだ。
そこにある序列や階層はただそこだけのものであり、便宜上のものである。 そんなことは我々にもわかっている――人間は平等であり、私生活にまでそんな序列が及ぶわけないと、正当にも心から思っている。
しかしなぜか、職場とか学校とかいう限定社会のヒエラルキーが、全人格的に/全局面で適用されるかのようにも感じる。
だから限定社会のヒエラルキーで「下」になると、存在を否定されると、全人格的全局面でもそうなるかのように感じてしまう。
その行き着く先が自殺である。
自殺するくらいなら反抗した方がいいに決まっていると思うが、そうできない人は大勢いる。
「下克上」は悪だからである。 戦国時代が好きな人は世の中に大勢いる。下克上というフレーズはそこでしばしば使われる。
しかし現実の自分の身近でそんなことが起こるのは許せないか、好ましいと思わない。
それが世間の雰囲気であり、「下」の人間もその雰囲気の中にいる。
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