厳しい「指導」は人間を鍛えるという。
理不尽なシゴキに耐えてこそ強靱な精神力が得られるという。
スクワットを何千回もやるような非合理的トレーニングをやってきた昭和のレスラーには、今のレスラーが持っていない「強さ」があるともよく言われる。 私はあながちそれを否定しない。
理不尽・非合理・過酷な経験をくぐり抜けてきたことは、確かに自信となるだろう。
そしてまた、他人も確かに一目置く。
脱落者が多いからこそ、過酷だからこそ、生き残った者には箔(はく)が付く。
ああいうことを経験して良かったと思う。ああいうことがあっても良いと考える。
「人に優しい軍隊」が戦争に強いことは、たぶんない。
過酷な訓練・シゴキのない特殊部隊が精強であることも、たぶんない。
だから、強くなりたければ/スキルを上げたければ、過酷な経験が必要だという主張には一理ある。
だからこそイジメを受けた人間が、あえて自分の後輩にイジメをする/してよい/むしろすべきだと思うのも、理解できる範囲内ではある。
しかしそれでも思うのだが、これは
「過ぎてしまえば戦争さえもいい思い出になる」という人間心理の現れなのではないだろうか。
この流れで行くと、拷問やリンチなども生き残りさえすれば「あって良かった」「いい経験」ということになるだろうが、私もあなたもそうは思わないだろう。 そしてもちろん、職場や学校でのイジメは精神力を鍛えていないし、そんな目的で行なわれているものでもない。
かつて藤原喜明は新日本プロレス時代、山本小鉄のシゴキを受けて「包丁で刺し殺そうと思っていた」そうである。
山本小鉄は藤原に限らず誰でもシゴく「鬼軍曹」として有名だが、しかしそこには「愛があった」という。
真壁刀義が先輩のシゴキや理不尽な振る舞いを受けて落ち込んでいる時、「だったら強くなれ! 強くなったら誰も文句は言わない」と言い、真壁はそれで発憤したのも有名である。
だが当然ながら、警察・自衛隊・そこらの職場で行われているイジメやパワハラに、愛だとか「強い組織を作ろう」などという高尚な目的があるわけがない。 それは純粋に、嫌いな人間を攻撃したい/貶めたいという集団意識の産物である。
さて、ではなぜ、ある特定の人間がターゲットになってしまうのだろうか。
なぜ同じ組織・団体・繋がりの中にある者を、その構成員が攻撃するようになるのだろうか。
第一の問いへの答えは簡単である――その特定の人間が、
周りに舐められているからだ。
そして第二の問いへの答えは、まさに
「同じ繋がりの中にいる」「身近な」存在だからである。
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