(プロレス界にいろんな事件が起きるせいで、なかなか一つの話を連続して書くことができない。
本稿は、2015-05-12 「芸術バブルの不思議な世界」 の続きである。)
しかし、それよりさらに深く長く――
歴史始まって以来続くバブルは、「金・銀・宝石バブル」だろう。
これはバブルどころか、世界経済の基本とも基軸ともなっている(なってきた)。
銀は影が薄くなったにしても、今でも金は「最も安全な資産」とも言われている。宝石の高評価ぶりは述べるまでもない。

金。 なぜこの鉱物は高価なのか? しかし冷静に考えて、なんで人間は金や宝石にそれほどの価値を認めるのだろう。
金や宝石は、そんなに高く評価されるべき「実体」を備えているのだろうか?
なるほど金は有用鉱物には違いない。それは自然劣化が極めて遅く、工業材料としても使用される。
ダイヤモンドは一番固い鉱物として有名で、金属を切るのにも利用できる。
だが、そんな原材料・道具用途としての値段より、はるかにずっと高い価値を認められているのはなぜなのか? それは結局、それらが「美しいから」(美しく感じられるから)ということに帰結すると思われる。
実用性、役に立つという点で、金は鉄よりずっと劣る。
また宝石は、言ってみれば単に光る石ころである。
だがそれらは、美しいと人に思われるがゆえに高い価値を認められる。
つまり、悠久の昔から金が価値の基軸となり、商品経済・金融経済の基礎となってきたその理由には、「美」があるということになる。 経済の基盤は「美」である―― そしてまた数学者たちも、数式や世界の構造には「美」がある、あるべきだと大勢が思っているらしい。
「美しさ」こそ数学も社会経済も(もしかしたら宇宙をも)支える柱であることは、非常に重要な問題である。 また「美しさ」は、人間の生にも多大な影響を及ぼしている。(特に女性の人生に)
ここで私の自著、『尊敬なき社会』を引用するのを御容赦願いたい。
こういうことをやるとステマの誹りを免れないのだが、しかし自分がまさにこれについて書いているのだから「まあいいか」と了解されたい。
(引用開始)**********************************
いまやスポーツ選手や声優など、顔の作りなど関係ないはずの存在にまで美人であることが要求されるかのように見える。
そうでないとメディアが持ち上げにくいから、売りにくいから経済効果が見込めないからである。
しかしそういう風潮をメディアのせいにするのはよそう。メディアにそうさせるのは究極的には大衆の要求である。
美人に好感や賞賛を寄せ、ブスを出したら嘲笑うのは世間の大衆なのである。
これは世間における「美の専制」とでも呼べる。 我々はかつてとは比べものにならない規模と密度で、多くの美人がごく身近にいる世界に暮らすことになったのである。
テレビを見てもマンガを見てもネットを見ても街を歩いても(広告という形で)、周りのどこにでも高水準の美人がいる。
そもそもそれだけの美人でなければメディアに登場することも稀である――我々はそんな環境に慣れきり浸かりきっている。
(引用終わり)
『尊敬なき社会(上)』第3章「美しさ――ブスに等しいものは何か?」**********************************
そう、確かに「美」は、我々の社会を規定し覆っている。それは宇宙に人間が存在する限り、「宇宙の根本原理」とさえ言えるかもしれない。
これについては、いつか独立の本を書こうと思っている。(いつになるかはわからないが)
さて、それはひとまず措くとして、
「金・銀・宝石バブル」とは、史上最長のバブルと言ってよいと思う。
その根拠に「美しさ」があるからと言って、それへの値付けが適正である根拠は誰にも見つけられないからである。
しかしこれほど長く続くからには、もはやバブルでなくて「常態」と言ってもよいだろう。
では、「金・銀・宝石バブル」や「芸術バブル」は永遠に続くものだろうか。いつか終わる日が来るだろうか。
一見、そんなことはありそうもないと思える。
将来「ピカソの絵なんてただの殴り書きじゃねぇか」とみんなが「気づき」、その価値が暴落する時代が来るだろうか?
そういう日が来るのは、確かに想像できかねる――
しかし待とう。バブルの最中はやっぱりみんなそう思っているのである。
そんな日が来るなんて(薄々予感はするにしても)、実感を持って想像できないものなのである。 史上最長のバブルである金・銀・宝石バブルにしても、いつかは終わる日が来るだろう。
それは私の乏しい想像力からすれば、宇宙時代になり、どこかの惑星で大量の金が採掘されることで到来するのではないだろうか。
そしてスポーツバブルとは、金・銀・宝石バブルや芸術バブルに比べれば、ずっとずっと歴史が浅いものである。
(それはおそらく、20世紀になってやっと始まった現象なのだ)
よってその崩壊は、意外と早くやってくる可能性がある。 たとえ今はどんなに想像できなくとも、あり得なさそうに思えても――
ちょうど2000年代前半の日本における格闘技バブルが、今は完全に弾けたように。
「スポーツなんかくだらない。あんなの何の意味があるんだ」という、今でも社会の多くの人々に伏在する底流意識が、やがて大きな主流になるかもしれない。
それも、我々の生きているうちに。
人の意識、世の中の雰囲気は変わるのである。どんなに変わらなく見えてもである。
そうでなければ我々は、いまだ古代メソポタミア式の神権政治の中にでも暮らしているはずだろう。
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