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前田日明のUWF――人間に自由意志はあるか?

 テレビのコメンテーターの言うことを聞いて多くの人が思うのは、

「こんな誰でも言えそうなこと言ってカネもらえるって、いいよなあ」ということだろう。

 しかしそれもコメンテーターが悪いのではない。

 北朝鮮問題の専門家に福祉政策についての意見を聞いたって、たいしたことが言えないのは当たり前である。

 そもそも人間は、そんなに何にでもかんにでも意見があるわけないのである。


 たとえば私は、西アフリカ情勢について興味はあるが意見はない。

 それがほとんどの物事に関して、人間の通常の状態だろうと思っている。何か意見があることの方が珍しいと思っている。
 

 そんなことはみんなわかりきっていて、なおコメンテーターが情報番組の必需品であるのは、やはり需要があるからだろう。

 ニュースについて自分がどう考えるか、どう思うかということさえも、指針を示してほしい人が多くいる。

 多いと言うより、それが人間のスタンダードなのだ。


******************************************************
 
 ここで思い出すのが、UWF時代の前田日明である。

 その当時、前田は所属選手(全員が彼より「下」)の意見をよく聞いて民主的にやっていこうと思っていた。

 しかし選手に意見を聞いても意見はなく「それでいいです」との反応で、そのくせいざ前田が決めたら文句を言う――

 結局みんな意見なんかないんだよ、もっと独裁的にやればよかったよと、近年の前田は至るところのインタビューで述べている。 (主に『KAMINOGE』で)

KAMINOGE vol28(表紙:前田日明)
KAMINOGE vol.28(表紙:前田日明)


 私は前田が本当に民主的にやっていこうとしていたか、そうできる性格であったか、所属選手もそんな風に感じていたかはもちろん知らない。

 当時の所属選手に聞けば、また別の感想があるだろうとも思う。

 しかし、前田が語るようなことが起こっていたのは事実だろうと信じられる。



 デートに行くのはどこがいい?

 そう訊かれて「どこでもいいよ」と答えたのに、いざ決めると不満そうになる/文句を言う。


 こういうことが何組のカップルの間で起きてきたことだろう。
 
 似たようなことは職場でも学校でも友人同士でも生じ、今後も絶えることはない。

 それは人間界の通例であり、人間の本性と言っていいだろう。


 たいていの人間には、たいていのことについて意見がない。

 それは他人によって初めて形成される。

 そして個人の好みや感じ方ですら、(他人の作った/作ってきた)社会の雰囲気に決められる。

 こういうことを思うと、はたして人間に自由意志はあるのかという、哲学上の伝統的重大問題に行き当たってしまう。





 人間には自分の意志がある。好みがあり意見があり、進むべき道は自分で決めることができる。決して誰かが操っているのではない。

 それは自明のことであり、そうじゃないわけないだろうと大半の人が感じるはずだ。

 しかし本当にそうであるならば、こんなことが何百年も哲学の世界で問題・論争になることはない。


 ひょっとして世の中に現存する個々人の「意見」というのは、全てとは言わなくても九割九分は誰かの受け売りではないか。 

 ごくわずか真に「自分の意見」を持つ人がいるとしても、それも先人の意見の影響ではないか。

 受け売りや影響なしに「意見」があるなど、神学上の処女懐胎のようなもの――そんなことはあり得ないのではないだろうか。



 「オピニオンリーダー」という言葉があるが、彼らは意見をリードするのではなく、意見を作っているのだと思う。

 よって彼らは、「オピニオンメーカー」と呼んだ方がずっと実態に近いと思う。

 そして今の世の中には、「スポーツには高い価値がある」とするオピニオンメーカー及び被影響者が多い。

 いや、その段階も通り越し、オピニオンをメイクする必要もなくなっている。

 スポーツを高く評価する雰囲気は世間を覆い、それが常識となりスタンダードとなったのである。


 そうしない人、反感を持つ人がいたとしても、人前で公然とそうは言えない雰囲気を確立したのである。

 しかしこの構造が、バブルと全く同じものであることはすでに述べた。

 バブルの最中だって「土地の値段は上がる一方」「チューリップの球根は豪邸一軒分の価値がある」との雰囲気がスタンダードだった。

 みんながそう認めていたからバブルは成立したのである。



 では、物事の価値がバブル状態かどうなのかは、どうやって区別できるのだろう。

 それは、「その状態が長く続いているかどうか」しかないと思う。


 もし今もチューリップバブルが続いていれば――チューリップにそれほどの価値があるとするのが世の常識なら、それはバブルとは呼ばれない。

 物事の真の価値は「実在」するのではなく、雰囲気によって生じ、存続するからである。

 根拠があろうがなかろうが、ただひとえに人々がそれを認めるかだけにかかっているからである。

 その最もはなはだしい例が、芸術という世界だろう。 

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プロフィール

平 成敏

Author:平 成敏
1970年代生まれの男性。
認定ファシリティマネジャー、主に施設管理の仕事に従事。
プロレス、社会、歴史など、興味関心のある分野についてあまり脈絡にこだわらず書いていきます。(⇒プロレス以外の話題については、別ブログ【社会・ニュース・歴史編】をご覧ください。)

著作一覧(アマゾンkindle版)

ペペチール第三王朝の興亡:表紙 世界系統樹:表紙 尊敬なき社会(上):表紙 尊敬なき社会(下):表紙

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