スポーツは世の中の何の役にも立っていないし価値もない。
だから、高額報酬に値しない。
それなのに現実に高額報酬が支払われているのは、明らかにバブル現象である――
これに対する反論は、次のようになるだろう。
「いや、スポーツは役に立っている。人を楽しませるという役にである。
だからみんながカネを払う。ビッグビジネスになっている。
つまり、みんなが価値あるものとして認めているからそうなる。
スポーツに価値がないと思うのは、スポーツに興味がないから/無関心だからこそである。
しかし世の中には、スポーツに価値を見いだす人/好きな人の方が多い。
一部のスポーツ選手がずば抜けた報酬を得ているのは、それだけの商品価値があるからである。
それは実力主義の帰結であり、何の問題もない。問題視するのはただのひがみである。」 私はこの反論は、正しいと思う。
しかし同時に、多くの問題を孕んでいるとも思う。
要するにこの反論の骨子は、「スポーツには高い価値がある、とするのが世の雰囲気である。だからこそスポーツに高い価値があるとするのは正しい」というものである。
もっと簡潔に平たく言えば、「みんなが言うからそれは正しい」となるだろう。 雰囲気が正しさを決める、というのは、私の自著
『尊敬なき社会』の主要テーマである。
そしてそれこそが世の真実である、理由や根拠や実体は必ずしも必要ない(雰囲気作りに有益ではあるが)、と私は書いている。
人殺しが悪であるのは、それを悪とするのが世の雰囲気だからである。
根拠は後付けであり、根拠づけられないことだってある。
メイウェザーvsパッキャオ戦に何百億円の価値がある、という実体的根拠を示すのは、たぶん誰にも不可能だろう。
しかし雰囲気が――それだけの価値があるとする人間の心が、市場を通じて根拠代わりとなってくれる。 本ブログ記事「プロレスと「差別」その7 プロレスは格下の「芸」なのか」(2015.04.13)では、現代日本において歌舞伎芸人や寄席芸人の地位は高いのに、なぜ大道芸人・筋肉芸人(プロレスラーのことだ)の地位は低いのか、を問うた。
それは「雰囲気」(及び慣例)によるものとしか思えないのではないか、と書いた。
我々は「アナウンサー」という職業も、ランクの高いものと見なしている。(特に女子アナ)
しかし彼らのやっていることは「読み上げ」であり、彼らは人前でそれを行う「読み上げ芸人」とも言い換えられる。
タクシー運転手は運転芸人、プロスポーツ選手はスポーツ芸人――およそ人前で何かやってカネを受け取る人は、全て芸人と言い換えられる。
あなたや私は「仕事芸人」「販売芸人」「事務芸人」と言って言えないことはない。
むろんアナウンサーを芸人と呼んだからと言って、別に私は彼らを蔑視するわけではなく、たやすいことをやっているとも思わない。
人前で不快感を与えず読み上げることは高度な技量(と訓練)が必要であり、決して容易なことではない。
(人前で話すくらいなら死んだ方がマシ、という人だって多い。)
しかし、それは他の「芸人」も同じである。タクシー運転手や電気工事の職人だってそうなのだし、ことさらアナウンサーが「ランクが高い」と見なす根拠はないはずだ。
しかし現実には、そう見なされている。
それは、社会の雰囲気がそうだからである。
人が、それも大勢の人が、価値があると見なすからこそ価値がある。それが現実を形成する。
これは経済学の基礎に据えられるような、絶対的な真実であると私も思う。 だがここで浮かぶのは、これはバブル肯定の根拠にもなるのではないかとの疑問である。 茶器一つ、チューリップの球根一つに何億円もの値が付くのは正しい。
人がそう思うからである。少なくとも一時はそう思っていたからである。それがその時の現実だったからである。 では、日本のバブル時代(1986-1991 とされている)の地価も「正しかった」ことにならないか?
日本の不動産価格(1971-2015) ブログ「アダム・スミス2世の経済解説」より引用
http://stockbondcurrency.blog.fc2.com/blog-entry-173.html
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