今のNOAHが新日本プロレスの実質傘下団体となっていることは、プロレスファンの共通認識である。
それを新日本幕府とノア藩との関係と考えれば、
NOAH副社長の丸藤正道は、ノア藩の藩主代行ないし筆頭家老と位置づけられるだろう。
むろん社長の田上明が藩主でありトップのはずなのだが、ファンもプロレスマスコミも、彼がNOAHの象徴だとは誰一人言わないし思わないのである。(⇒ 2015年3月24日記事:NOAHは現代のUインターか? その5 「新日本幕府ノア藩」の成立)(⇒ 2015年6月16日記事:レスラー短感02 田上明・NOAH社長の元気のなさは異常ではないか?) 今の丸藤は、NOAHの象徴であり看板である。
故・三沢光晴がNOAHの盟主どころかプロレス界の盟主と呼ばれていたことには及ばないにしても、彼が現代日本プロレスの「象徴」の一人であるのを否定する人は(アンチを除けば)そんなにいない。
しかしそれは言い方を変えれば、
「NOAHの中で他団体に出て話題になり、集客力を持つ唯一のレスラー」ということにもなってしまう。
上記引用記事(NOAHは現代のUインターか? その5 「新日本幕府ノア藩」の成立)でも書いたが――
2015年1月4日・新日本東京ドーム大会に出場した丸藤正道&TMDKは、
「もしNOAHが崩壊した時、新日本が引き取ってもいい選手」なのではないかと思えたのだ。
(TMDKの2人もまた、WWEへ行ってしまったが……)
今のNOAHに占める丸藤の存在の大きさは、かつてのNOAHにおける三沢のそれと遜色ない――あるいは、それをも上回るのかもしれない。 だが、もしかするともっと早く、丸藤はそうなっていたとも考えられる。
ここに一つ、古いNOAHファン(またはプロレスファン)にとって記憶に残る試合がある。
「時代の流れを逆戻りさせた」「時計の針を戻した」と否定的な見方をされることが多い一戦――
2006年12月10日・NOAH日本武道館大会、時のGHCヘビー級王者・丸藤正道と、挑戦者・三沢光晴のタイトルマッチである。(この頃まだ、NOAHは日本武道館で大会を開催できていたのだ。)
この一戦、最後はコーナー上からの雪崩式エメラルドフロウジョンで三沢が勝ち、丸藤は王座陥落した。
もちろん、プロレスの勝敗は事前に決められていると前提しての話だが――
この結果は三沢の(痛恨の)ミステイクだったと感じている人も多いだろう。
むろんそれは、三沢なりに考えた結果だったはずである。
今から10年前、まだ26歳だった丸藤が王者ではやはり集客力に不安がある、今はまだ自分が王者で看板でなければならない……
これは、世の中でよくあることである「背に腹は代えられない」「短期的利益が心の中で長期的利益(しかし不透明な利益)を上回る」一例であったとも捉えられる。 いずれにせよ、当時26歳の丸藤が、数年後の新日本におけるオカダ・カズチカのような存在になることはなかった。
三沢も小橋建太も秋山準もいまだ現役であった当時、そんなことはできなかったし不要でもあったとも考えられる。
しかし丸藤がGHCヘビー級王者である間、三沢も小橋も秋山も倒して防衛を続けることができず、彼らをファンの中のイメージ上で拮抗ないし上回ることができなかった事実は、今となってはやはり「負」だったことになるのだろう。
そしてそれが、今日のNOAHの退潮に繋がったと付会できるかもしれない。
(丸藤自身も、「自力で世代交代ができなかったこと」を悔恨としてどこかで語っていた記憶がある。ソースは確定できないが。) そういう意味で、2006年12月10日のGHC戦は「歴史的試合」と位置づけることも可能だろう。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
- http://tairanaritoshi.blog.fc2.com/tb.php/310-776f441b
トラックバック
コメントの投稿