以上、副業禁止というものが、市民の自由と生存権を抑圧する憲法違反の代物であることを縷々綴ってきた。
しかし最後に、(いや本当は最初に)思うことがあるので付け加えて書いておこう。
一つは、ごく素朴に、
副業することはGDPの拡大と経済成長に繋がるのではないかということである。
これは、普通に「いいこと」ではないだろうか。
もう一つは、
そもそも副業しようなどという人は、そうでない人より「バイタリティがあり、意欲があり」、ないし「才能があり、進取の気性に富んでいる」のではないかということである。
それを制限するのはもったいないということである。
(あなたも実は、そう感じるのではないですか?)
さらに一つは、
副業を禁止しようとする人/それを支持する人というのは、副業をやりたい人に対して何をしてくれるつもりがあるのかという疑問である。
自分の収入源を拡大・分散しようとするのは、彼にとって当然かつ賢明な選択と言わねばならない。
(いや全く、これは投資の初歩であり鉄則である。) それを禁止しようとする職場や同僚たちというのは――
彼がその職場を失った/去ったとき、いったい何をしてくれるのだろう。
いや、あなた自身、その人にいったい何をしてあげるつもりがあるというのだろう。
賭けてもいいが、あなたは彼に餞別を贈るのが関の山である。その後も資金援助するなど絶対に考えもしないのである。
そのことを少しでも思えば、副業を禁止するという自由の抑圧には、道徳的根拠も彼に対する見返りも全然ないということに気づかないわけにいかないはずだ。
はっきり言ってこの問題、このことに尽きるのではないか? 自由を制限するのが正しいとする雰囲気は、確かにいまだに日本を覆っている。
それを封建主義の残滓と言うことも可能なのだろう。
しかしその雰囲気を支えているのは国家の権力者でも老害政治家たちでもなく、「あなたの身近な人民」である。
(副業を禁じているのは国ではないことに、もう一度思いを致そう。) 21世紀のこの日本で、もし「人民戦争」や「解放戦争」が起こり得るとすれば、
その打倒すべき対象は――
「他人の生き方を自分たちの好みに合わせようとする人民の群れ」と、彼らの支える「雰囲気体制」ということになるだろう。 衣食足りた世界で最後に残る戦争・革命要因とは、やはり思想・信条なのである。
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