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プロレスと「差別」その5 プロレス八百長論

 プロレスが被差別ジャンルとは言えないまでも、世間から一段低く見られているジャンルであるというのはプロレスファンも認めるだろう。

 私は便宜上このブログでは「プロレスその他のスポーツ」などとの言い方をするが、「真の」スポーツ愛好家にとってはこういう言い方も冒涜と感じるかもしれない。

 「真の」格闘技のファンにとって、プロレスのチャンピオンとボクシング・柔道・アマレス等々のチャンピオンは決して同格ではない。
 そういう風に扱うことは後者にとって冒涜となる。

 プロレスが「スポーツ」の仲間とされていないのを最も端的に表しているのは、一般新聞のスポーツ欄に記事が掲載されないことである。
 地上波テレビのスポーツニュースで結果が報道されないことである。
 わずかにテレビ朝日の「Get sport」内で新日本のG1決勝戦などが放送されはするが、他のスポーツのようにキャスターらがそれについて語り合うわけではない。

 この違いはなぜ起こるのか。
 それはもちろん、プロレスが八百長だということが世間の共通認識だからである。

 プロレスは本当に勝敗を争ってはいない。
 あれはショーであり作り物である。
 だから、「まともな」スポーツとして扱われない。

 プロレスの地上波ゴールデンタイム復帰が極めて難しいのは、これが最も大きな理由だと私は思う。

 八百長でありインチキな疑似格闘技ショー(と世間に思われているもの)を放送するということは、テレビ局にとってリスクである。
 深夜でやっているうちはまだよい、その時間帯の地上波はCS放送みたいなものだ。少数の見たい人が見ればよいと世間は思うし、よっぽどのことがない限り放置してくれる。
 だからこそ地上波であっても、きわどいエロネタやエロDVD店のCMを流すことができる。

 しかしゴールデンタイムともなれば――「なんであんなインチキを放送するのか、おまえの局はインチキを事実みたいに流すのか」とたちまちクレームが入るだろう。だからスポンサーも付かないだろう。

 もちろん、単に「暴力的だから」「野蛮だから」「血が流れるから」という理由もあろう。(これもクレームを恐れてのことである)
 当ブログで以前述べた、「試合中に選手が事故死・大怪我する懸念」もあろう。
 しかし理由の大部分は、「八百長と世間に思われているものを、そんなに堂々と放送できない」ことに帰結すると思われる。

 あなたがプロレスファンであることを人に言う時、その人から返る言葉は高確率で「あれって八百長?」というものである。
 そうでないとすれば、それはあなたが気を遣われているのである。

 このことはどんなプロレスファンでも気づいているし、経験してもいるだろう。


 では、八百長とは何か。その逆の「真剣勝負」とは何なのか。

 このことについてはプロレスラー自身も著書で触れることがある。

 三沢光晴(NOAH創設者。2009年、試合中の事故で死去)著『理想主義者』(ネコ・パブリッシング 2004)から引用しよう。

20150405三沢光晴「理想主義者」


(引用開始)
 そもそも、“真剣勝負”とは何なのだろうか。言葉にするのは簡単だが、何をもって真剣勝負とするのかは、いまだにはっきり示されていない。たとえばアマレス的な動き、または総合格闘技のような試合を指すのだろうか。それとも、ノールールで闘うことを意味しているのだろうか。
 仮にルールを決めずに闘うのが真剣勝負だとすれば、それはただのケンカに過ぎないと私は思う。
(引用終わり。第51-52ページ)

 三沢は答えをはぐらかしている、と私は思う。
 真剣勝負とは何か。
 それは試合の結末を決めていないことである。
 そうでないのを世の中では八百長と言う。


 三沢に限った話ではないが、プロレスの内幕暴露本に抗した本やインタビューの中で、「プロレスの試合の結末が決まっていることは断じてない」と反論しているのを、少なくとも私は見たことがない。(けっこうその手のものは読んでいるつもりなのだが)

 これは、問い詰められたプロレスファンが答えに詰まる問題でもある。

 もし人の心を見通す悪魔がいたとして、プロレスファンを脅迫したとしよう。
 「おまえはプロレスが本当に事前に勝敗を決めていないと思っているか、言え。嘘をついたら拷問して殺す」と。
 これに対して「いや、決めてない。本当に勝敗を争っている」と答えるファンはどれだけいるだろう。
 もしいるとすれば、それは人間離れした信念・決意・覚悟・忠誠心と言えるかもしれない。
 人によっては、救いがたいバカか狂信者だとも言うだろう。

 昔のプロレスファンの中には、「普段の試合はそれは“作り”があるかもしれないが、タイトルマッチは真剣勝負」といった折衷説を採る人もいたようである。(今もいるのかもしれないが)

 しかしこれだけ世間が「プロレスは作り物のショー」と認知しているにもかかわらず、その世間の中から出てくるし暮らしてもいるプロレスファンがそうは思っていないなどと、ちょっと容易には信じられない。
 しかもそのファンが熱心であればあるほど、暴露本・内幕本の存在を知らずに済むことはあり得ない。

 ハルク・ホーガン(史上最も成功したプロレスラーとも言われている)の自伝『わが人生の転落』(双葉社 2010)から引用する。

20150405ハルク・ホーガン自伝


(引用開始)
 その時まで、プロレスが“仕事(ワーク)”だとは、だれも教えてくれなかった。ましてや、試合の結末すら事前に決められていることさえ知らなかった。
 (中略)
 俺はこの瞬間、「自分もレスラーになれる!」と思った。目の前でどれだけ過激な闘いを繰り広げようが、マジで潰し合っているんじゃないと悟ったからだ。
(引用終わり。第60ページ)

 こんなのを読んでなお「プロレスは真剣勝負=試合の結末は決められていない」と信じるには、「アメリカのプロレスと日本のプロレスは違う」と信じる必要があるだろう。
 しかしそれなら、なぜアメリカのプロレスラーがこんなにも日本に流れ込み、日本の選手と試合ができている(いた)のかを説明するという超難題が生じてしまう。

 そして私は、プロレスファンも世間と同様、やっぱりプロレスは作り物なのだと思っていると思う。
 最低でも、何らかの「作った要素」が混じっていると想像しているだろうと思う。

 しかし彼らは当然ながら、だからプロレスを見下したり嫌いだったりはしない。

 それはなぜなのかはひとまず措いて、ファン以外の世間にとって、やはりプロレスは真剣勝負に見せかけたショーであるとの認識である。
 プロレスラーはスポーツ選手などでなく、そりゃあ一般人よりは強いだろうが、一種の筋肉芸人と見なされている。

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プロフィール

平 成敏

Author:平 成敏
1970年代生まれの男性。
認定ファシリティマネジャー、主に施設管理の仕事に従事。
プロレス、社会、歴史など、興味関心のある分野についてあまり脈絡にこだわらず書いていきます。(⇒プロレス以外の話題については、別ブログ【社会・ニュース・歴史編】をご覧ください。)

著作一覧(アマゾンkindle版)

ペペチール第三王朝の興亡:表紙 世界系統樹:表紙 尊敬なき社会(上):表紙 尊敬なき社会(下):表紙

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