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プロレスと「差別」その3 続々・不適切用語について/時代小説における事実の抹消

 たぶん「ハゲを馬鹿にするな!」という心からの抗議は、今の社会において「見苦しい/嗤(わら)うべきもの」とされているのだろう。
 禿げている本人すらもそういう雰囲気の中にいる、だから声を上げない/上げられないのだろう。


 昨今のテレビ局は、ほんのちょっとのクレームでもCMを中止したり番組内容を差し替えたりすることで知られる。
 クレームを恐れて番組制作の段階から萎縮してしまっているとも言われる。

 しかし、今まで「ハゲをからかうのはやめろ! そんなの禿げた人を傷つけるだろ!」というクレームが全くなかったはずはない。
 それでもハゲをネタにした番組はなくならないし、お詫びをすることもないのは、世論がそれを容認しているからとしか考えようがない。

 そんな抗議をする人間は見苦しく、恥の上塗りをする滑稽な奴だとの雰囲気が社会にある――こう考えるのは間違いだろうか?
 この点、テレビ局は世論のバックアップを受けていると言っていいのではないだろうか。

 「人を傷つけるから使ってはならない」言葉の基準は、社会の雰囲気で決められる。
 何が人を傷つけるかは、その時々の雰囲気による。
 決して「本源的に」「最初から」「当然に」決まっているものではない。

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 ところで私には、昔から気になっていたことがある。
 それは、「テレビを見る」「音楽を聴く」という表現はどうなのだろうという疑問である。

 「テレビを見る」「ラジオを聞く」という表現。
 「ご覧ください」、「聞き耳を立てる」、「傾聴する」という言葉。

 これらは本当に、目の見えない人・耳の聞こえない人を傷つけてはいないのだろうか。
 「視聴者の皆様」という言葉は、配慮に欠けているのではないか。

 「そんなの見りゃわかるだろ」「耳の穴をかっぽじってよーく聞け」などと言うのは、言葉遣いが荒いとか以前に言葉の暴力と呼ぶべきではないか。

 生まれつき目の見えない人、耳の聞こえない人は、初めからそうなのだから別に傷つくことはないかもしれない。
 見えないこと聞けないことが、悔しく悲しいこととは感じていないのかもしれない。
 それは、普通の人間が紫外線が見えないことを無念に思わないのと同じかもしれない。

 しかし、いったい誰がそう断言できるのか。

 見えること聞けることが前提になっているこの社会で生きるとは、少なく見積もっても絶えざる疎外感を抱いて生きることではないのか。
 一人でもそういう人がいれば、その可能性があるのなら、やっぱり「見る」だの「聞く」だの「視聴者」だのという言葉は使うべきでないのではないか。
 そんな配慮を巡らせるのが健常者の責務であり、道徳にかなうことではないか。


 もちろん、これが滅茶苦茶な言い分なのはわかっている。
 こんな言い分が「正しい」のなら社会は成り立たない。「できるわけない」のは当然だ。
 しかし私は意地悪ながら、テレビ局や職場のあなたにこんなクレームを入れてみたらどうだろうと想像する。

 おそらく、テレビ局もあなたも対応に困るはずである。
 心の中では「何言ってんだこのバカ、変なこと言うな」と思いながら、返答はしどろもどろになるはずである。

 ハゲに対する場合と違い、この場合に社会・世論のバックアップはないからだ。
 この社会は「障がい者を傷つけないよう配慮するのが正しい」という雰囲気に包まれており、当然その中にいるあなた自身も例外ではないからだ。

 ネット上では「弱者権力」「調子に乗んなよクソ障害者」などと言えても、面と向かっては――あるいは電話に対してさえもそう言えないのはわかっている。
 雰囲気という「正しさ」が、あなたも正しいと思っている雰囲気が、あなたを苦境に追い込むのである。

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 こうした雰囲気の中で少しでもリスクを減らそうとすれば、リスクのあることを言わないに越したことはない。
 リスクを生じさせるものを「ない」ことにするに如(し)くはない。
 そんなのが本当に世の中から消えてくれれば最善である。

 昔の日本にも、当然ながら盲人はいた。
 彼らの多くは按摩師(あんまし。今のマッサージ師・整体師に当たる)になって生業を立てていたようである。
 江戸の街には盲人按摩師が何人もいて、それが普通の現実の風景であったはずである。

 しかしもちろん、彼らは「目の不自由な人」と呼ばれていたわけではなかった。
 江戸の市民は彼らを「メクラさん」と呼ぶことも多かったらしい。
 それに侮蔑の心が含まれていたか私は知らない。しかしこれもまた現実の光景ではあったろう。

 さて、現代でも時代小説の人気は高い。
 そこにおいては必然的に江戸の街の描写をすることになる。
 盲人按摩師はその欠かせない一風景と言ってよいのではないかと思う。 

 だが、彼らを風景以上の一登場人物とするには、作家にとってリスクがある。
 彼らが人から呼ばれるとき、「メクラさん」と書くわけにはいかない。さりとて「目の見えない人」は問題外だ。
 「あんま屋」とすればいいのかもしれないが、これも現代人の感覚では「さん」を付けるべきなのだろう。
 そしてそういう感覚を江戸時代の人間のやりとりに持ち込めば、またおかしなことになる。

 戦前の捕物帖や時代小説では、「おい、てめぇメクラの分際で」とか、穢多(えた)・非人(ひにん)に対する乱暴なセリフが散発的に使われている。
 それは現代の価値基準=雰囲気からは、とうてい認めらない表現である。
 しかし同時に、事実そのものの描写であり、最低でも事実により近い表現であるのも確かである。
 岡っ引きや旗本が(あるいは町人が)、こうした被差別民に「配慮」するよう描くことの方が不自然でありフィクションである。
 
 だが現代において、そんなリアルは書くことができない。
 書いても編集者に削られるし、そもそも作家自身にそんなリアルを書くことへの自制が働く。(彼もまた雰囲気の中にいるからである)

 結局作家は、一言で言って「面倒だから」、こういう人物/シーンについては深く触れないことになろう。
 まして「盲人の悪人」「被差別民のろくでなし」を書こうとはしないだろう。
 そういう小説があったとして、映画化ドラマ化はされないだろう。(だからこそ書こうとしない、ということも大いにあり得る)

 江戸の街には盲人もいたし盲人の悪人もいた。
 「えた・ひにん」もおり、その中にも悪人はいた。
 それは確実な事実なのだが、創作世界ではあえて書かれず除外される。
 いなかったものとしてスルーされる。
 もしそういう人物を登場させるなら、編集部や読者や批評家はその必要性を非常に厳しく問うだろう――まるで、必要性のない人間は原則この世にいてはならないかのように。

 たとえ過去の事実であったとしても、現代の雰囲気に沿わなければ/面倒を起こしそうだとなれば、それはなかったことにされる。
 書かない/触れないことにより、それは簡単にできてしまう。

 むろん作家には、「何から何まで書くわけにはいかない」との正当な言い分がある。
 そんなこと書きたくなけりゃ書かなければよい。それは作家の自由である。
 しかしその「書きたくない」理由の一つに、こうした「めんどくささ」が厳としてあると想像するのは、必ずしも的外れではないと思う。


 ここでようやく話がプロレスに戻るのだが、プロレス界にも似たような理由で失われた一ジャンルがある。
 言わずと知れた、「小人(こびと)プロレス」というものである。

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プロフィール

平 成敏

Author:平 成敏
1970年代生まれの男性。
認定ファシリティマネジャー、主に施設管理の仕事に従事。
プロレス、社会、歴史など、興味関心のある分野についてあまり脈絡にこだわらず書いていきます。(⇒プロレス以外の話題については、別ブログ【社会・ニュース・歴史編】をご覧ください。)

著作一覧(アマゾンkindle版)

ペペチール第三王朝の興亡:表紙 世界系統樹:表紙 尊敬なき社会(上):表紙 尊敬なき社会(下):表紙

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