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2015・G1決勝戦 その4――「過去でなく今を見る」のは正しく、可能な見方なのか?

 プロレスとはただ単に試合そのものでなく、各選手の経てきた歴史や人生をひっくるめて――時には観客自身のそれを重ねて――観るものである。

 それがプロレスの醍醐味であり、面白さであり素晴らしさである。



 熱心なプロレスファンはそう思っているし、そう感じるからこそ熱心になったはずだろう。

 これは、プロレスの独自性とも言える。

 その他のスポーツでも小説の世界でも、何らかの賞を取ったことにより初めてその人物がクローズアップされるケースが大半である。

 そこで初めて彼の歴史や人生が――今までやってきた/書いてきたものが、いわば後追いで注目される。

 しかしプロレスの場合は、どちらかと言えばもちろん賞が後に来る。

 日々の試合で実績や評価を上げていき、その結果が賞につながる。(と言っても、東スポのプロレス大賞くらいしか賞はないが)



 またプロレス以外のスポーツや小説は、基本的には「その場限り」のものである。

 過去に彼が何をしてきたのかとは関係なく、「今回の試合」「今回の小説」が大事かつ判断基準になる(べき)ものだ。


(「今回の小説」がつまらないならば、いくら大家と見なされていようとその作家は評価を落とす。

 かつてまぎれもない名作を書いていたにしても、それで今回の小説の評価が上がることはない。むろん例外は多々あるにしても……)


 しかしプロレスでは過去の蓄積がそのまま現在の評価になる――過去の栄光がそのまま今も持続する、という面が確かにある。

 プロレスは長く見ていれば見ているほど楽しめるジャンルである、とよく言われるが、

 プロレスは長くやっていればやっているほど得をするジャンルである、とも言えると思う。

 
 たとえば私は感じるのだが――

 最近の武藤敬司及びグレートムタの試合(と存在そのもの)は、まさに「神格化」しているのではないか?

 彼は決まって「天才」と呼ばれるが、今はもっぱら過去の天才時代の蓄積でそう呼ばれ続けているのではないか?

 つまり今現在の彼は、はっきり言えば内実が伴わず、その名のみで試合が成り立ちオファーもされている、という印象である。

 私は、今の彼の試合を見て「天才」を感じることは、極めて困難なことだと思う。

 予備知識なしで初めて武藤の試合を見る人は、「あの人、『ドラゴンスクリュー』って技しかできないの?」とか思うのではないだろうか?



 歴史性とは全然別に――そんなものを何も知らない、選手さえ知らない、プロレスを始めて見るような人が見ても「面白い」と感じる試合及びレスラー。

 それが「面白い」試合やレスラーの基本中の基本
だということは、誰も否定しないだろう。

 しかし一方、プロレスの魅力とは過去の歴史を知ることであること……

 プロレスの「真の」魅力が歴史性と骨がらみになっていることも、やはり否定はできない。


 新日本のKUSHIDAは、「どこから来たかでなく、どこへ行くかを見てほしい」と言っている。

 「過去でなく、今(と未来)を見てほしい」との意味である。

 しかしKUSHIDAのエントランスムービーには、彼が子どもの頃の映像――自宅の部屋でムーンサルトしたりする、過去のホームビデオ映像が挟み込まれている。

 彼のエントランスムービーを見て感情を動かされることがあるとすれば、まさにその部分だろう。


 そういう過去を知るからこそ、今の姿を見て感動できる。


 

 我々は「過去の栄光に生きる」ことに悪印象を持つ。そう見える人物はバカにする。

 誰も「自分は過去の栄光で食っていく」と宣言はしない。

 誰もが「大事なのは今」と言う。

 しかし、多少とも知っている人間を、「今」だけ切り取って見るということが可能だろうか。

 そういう見方が正しく妥当と言えるのだろうか。

 結局のところ、人間は過去の集積以外の何だというのか、という疑問・問題が生じずにいない。

 これはプロレス界のみならず、日常生活全般に密着した問題である。

 誰が見ても明らかに老害化している人物を、それでも過去の功績があるから無碍にはできない――これは非常によくあることだ。

 過去に犯罪を犯した人間でも、今は更正したと見るべきなのか。そういう前提で見るのが正しく好ましいことなのか――これも意見がはっきり分かれるのは周知のとおり。

(分かれているのは意見ではなく、一人の人間の本音と建前かもしれないが。)

 

 そして棚橋VS中邑は、「今」の試合だけを純粋に切り取って観るべきなのか。

 それとも両者の歴史性を加味して観るのが正しいのか。そうでなくては「浅い」見方になるのだろうか。

 もし「今の試合だけを切り取って観た」場合、彼らの試合は常にベストバウトと言い切れるのか。 



 この二人の対戦は――もし両者がそれを避けたいと思っているならば、の話だが――、「神格化」や「過去の蓄積で高められる」状態に陥る可能性が非常に高いと思われる。

 それを避けるには、「今」の試合の「それ自体単独」での内容を、絶えず高め続けるしかない。

 これは言うまでもなく、ものすごい苦難の道である。

 正直、従来のレスラーでこれに成功したと言い切れるのは、ごく少数だろうと思う。

(私は具体例を挙げることができない。また、短期間で引退した人は当然除く。)


*******************************

 
 ただ私はこんなことを書いてきたものの、今回の棚橋の勝利と優勝を嬉しく思っている一人である。

 2007年以来のG1優勝という実績は、そこから2015年の今に至るまでの彼の功績に対する一つの報いだと思っている。

 たぶん新日本の中の人も観客も――熱烈な中邑ファンさえも――、今回ばかりは棚橋に花を持たせたい、持ってほしいと願っていたのではないだろうか?


 棚橋弘至は三十八歳。もうすぐ四十代が来る。

 まるで家族のような言い方になってしまうが、彼には幸せになってほしい。

 彼はそれだけのことをしてきたし、それだけの苦しみを味わい、本当にやりたかったことを諦めてきた男でもあると思う。

 こう感じるということは、やはり人間は「過去を想う・観る」ことから逃れがたいのを意味しているのだろう。

 人間を「今現在だけ」で判断し、受け止めることがいかに困難か――

 それが真に正しく好ましいことなのかどうか、あなたはどう思われるだろうか?

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プロフィール

平 成敏

Author:平 成敏
1970年代生まれの男性。
認定ファシリティマネジャー、主に施設管理の仕事に従事。
プロレス、社会、歴史など、興味関心のある分野についてあまり脈絡にこだわらず書いていきます。(⇒プロレス以外の話題については、別ブログ【社会・ニュース・歴史編】をご覧ください。)

著作一覧(アマゾンkindle版)

ペペチール第三王朝の興亡:表紙 世界系統樹:表紙 尊敬なき社会(上):表紙 尊敬なき社会(下):表紙

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