ところで世界には、
ノーベル文学賞という芥川賞よりはるかに「格上」(のはず)の権威がある。
しかしその受賞者は、なぜか芥川賞のそれより日本では知名度がないし報道もされない。
以下は最近5年間のノーベル文学賞受賞者である。
*******************************
2010年 マリオ・バルガス・リョサ(ペルー)
2011年 トーマス・トランストロンメル(スウェーデン)
2012年 莫言(中国)
2013年 アリス・マンロー(カナダ)
2014年 パトリック・モディアノ(フランス)
*******************************
このうちバルガス・リョサだけは、日本でも知っている人が多いだろう。
しかし他の人たちの名を聞いたことがある人、ましてその作品(の日本語訳)を読んだ人ってどれだけいるのだろうか?
なにせノーベル賞である。世界的な賞である。
その格から言えば、「日本の純文学の新人賞」である芥川賞とは天と地の差があるはずだ。
しかし、たとえばパトリック・モディアノの受賞が日本のメディアで大々的に報道されることはない。
芥川賞・直木賞のそれと比べれば、その報道量は100分の1いや1000分の1にも満たないのではないか?
そしてそれゆえに、日本人の大多数は受賞作家の名も知らないし「読みたい」とも思わないのではないか? むろん、日本人が受賞したとなると話は別だ。
(何度も噂されているが)ついに村上春樹が受賞すれば、それはフィーバーになるだろう。
オリンピックとかでもそうなのだが、日本人が受賞したりメダルを獲った時だけものすごく報道される――
私はこういう点、日本は確かに民族主義的・自国中心主義的になっていると思う。 それはプロレスとの大きな違いであり、今の日本のプロレスはメディアとファンの双方において、最も民族主義から遠いジャンルではないかと思う。
(力道山時代には最も民族主義的なジャンルだったのが、今はそこまで変貌を遂げたのだ。) さてところで、ノーベル文学賞受賞作って面白いのだろうか。
またまただが、私は上に挙げた作家5人の本を全然読んだことがない。
しかしたぶん読みたいとは思わないだろうし、読んでも面白いとは感じない気がする。
それはやっぱり、文学・小説には人それぞれに好みがあるからである。
ミス・ユニバースでも同じことだが、この女性が世界一の美女だと言われても「そうか?」と思うものなのである。
ミス・ユニバースに選ばれた女性より、エロビデオに出てるAV女優の方がよっぽど美人で好みだと感じる――
これはありふれた、当然の感じ方なのだ。 芥川龍之介と夏目漱石とどっちが上か、谷崎潤一郎と井伏鱒二はどっちが高級か、
そんな比較は意味がないし比較しようもない、と誰でも言うだろう。
ナボコフ『ロリータ』とデュマ『三銃士物語』とブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』はどれが上か、
やっぱりノーベル賞受賞作家の作品よりは下なのか。
こんなのは結論の出ない議論であり、もし決着を付けるとすれば全世界人類による人民投票しかあるまい。
私は、アルフレッド・ノーベルがノーベル賞に文学賞だの平和賞だのの文系部門を設けたのは、大きな間違いだと思っている。 人によって感じ方が違うからである。
どっちが上か、基準なんて付けられないはずだからである。
はっきり言えば、これら文系部門の賞は、ノーベル賞の権威を落としていると思う。
特にノーベル平和賞にはその傾向が著しい。 佐藤栄作(日本の首相。任1964年-1972年)が1974年のノーベル平和賞受賞者だということに、当時も今も日本人は「え、なんで?」と感じるはずだ。
(非核三原則などの平和外交を行なった、というのが受賞理由。
もっともこれは、外国人だとそんなもんかと納得するが、身近な同国人についてはそうは思わない、という人間共通の心理の表れかもしれない。)
しかしPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長が受賞したのに至っては、もう爆笑ものである。(パレスチナ和平に尽力したというのが受賞理由。)
これならひょっとして、
カンボジアのポル・ポトなんかも、もし和平に動いていれば受賞の可能性があったのではないかとさえ思う。
(この二人がやってきたことは、ネット検索すればすぐわかる。)
- 関連記事
-
スポンサーサイト
- http://tairanaritoshi.blog.fc2.com/tb.php/111-fd7d9c85
トラックバック
コメントの投稿