事実として芥川賞(と直木賞)は、出版界における定期的カンフル注射の役割を果たしている。 それがあれば受賞者と受賞作が話題になり、本の実売もはっきり上がる。
普段なら純文学にも大衆文学にも見向きもしない人、何の関心もない人も、買って読もうかという気にさせる。
もしそれがなかったとすれば、一生に一度も純文学・大衆文学を読まない人の数は今よりずっと多かったろう。
ところで、なぜ人は芥川賞受賞作と聞くと、買って読もうという気になるのか。
『火花』が100万部売れるとして、「売れる本=面白い本」との基準を使うなら、もちろん「面白いから読む/買う」という答えになる。
しかしむろん、その100万人が――たとえば本屋で立ち読みなどして、「自分がこれは面白いと思ったから買った」わけじゃないことも明白である。
前々からピース又吉の文才に着目していたとか、以前からの愛読者だったわけでもないはずである。 もちろん彼らは、話題だから買っている。
芥川賞を取った作品なら面白いんだろうと思うから――選考委員やメディアがそう言っているのだから、それに影響を受けて購読行動に至っているのだ。
これについては以前の記事でも書いたのだが、やはり
「自分の心は他人が決める」一例と言えるだろう。
(⇒2015年5月7日記事:ピケティ『21世紀の資本』と「鈴木みのるvsAJスタイルズ」――自分の心は他人が決める?) 他人が選んだものを自分も選び、自分が面白いと思うかどうかも他人の意見に依存する。
芥川賞を取った小説だから買う/読む。
たとえ読んで「これ、面白くないな」と感じても、「いや、芥川賞を取ってるんだから面白いはず」とも感じる。 自分は面白くなく感じても、それは正しい思い方ではないのであり、面白く感じないのが悪いとさえ思う。
なにせ、賞を取ってるんだから。それも芥川賞なんだから。
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このブログを読んでくださっている方はお気づきと思うが、私は他人の意見は全然重視しない性格である。
他人が何を言おうがしょせん他人の言うことであり、私の心が言うのではない。
私にとって、自分の心の方が他人の意見や心などよりはるかにずっと重要なことはわかりきったことである。 だからいくら他人が(メディアや選考委員が)面白いと言おうが、私の心がそれに影響されるはずもない。
しかし本記事「その1」でも書いたが、その私にして『共喰い』(田中慎弥、2011年下半期受賞作)はわざわざ『文藝春秋』を買って読んだ。
それはなぜかと問われれば、やはり話題になったからである。芥川賞受賞作だからである。 そうでなければ絶対に一生読むことはなかったろう小説を買って読ませた動機は、やはり他人の影響なのだ。
私がプロレスを好きになったのは、たまたまプロレス中継をスカパーで見て面白いと思ったからで、他人の影響は全く受けていないと断言できる。
(ちなみにそれは、中邑真輔の試合であった。)
しかし何かを買う場合・何かを思う場合、そのほとんど全てに他人の影響が入り込んでいると言わざるを得ない。
いくら独創を誇りたかろうと、独立した人間でありたいと思おうと、他人(及びその集合体である世間)の影響を全然受けずに生きていくのは無理である。
世間から孤絶した世捨て人や苦行者さえ、そういう種類の先人に影響を受けて(憧れて)自分もその道を選んだに違いない。
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