イジメ事件の報道で表立っては言及されないが明らかな事実であるのは、
一人の自殺者の背後には、イジメをやる生徒・保護者・同僚たちが大量にいることである。
岩手県矢巾町にも栃木県佐野市にも、もちろん他の地域にも、
殺人者に比すべき連中が普通の人間の顔をして、普通に仕事し学校に通い、ウヨウヨ平然と生きている。 そればかりか人民・庶民の一員として、現代日本の民主制下における「主権者」「お客様」「主人」「主君」――
つまり、尊重されるべき配慮されるべき「正しき者」と位置づけられている。
私は民主主義を正しいと思っているが、だからといって人民・庶民はいつも誰もが「基本的には」正しいなどとは思わない。
庶民の敵はいつも庶民の中にいる。敵は身近に生きている。
かつて、人民を死や苦難に追いやる「暴君」はありふれた存在だった。
封建制・身分制は消えたにしても、「暴君的性格」は決して消えることがない。
そういう性格の「庶民」は、今もこれからも生まれ続ける。
彼らはたまたまこの現代に、たまたま庶民に生まれてきた暴君に他ならない。 私はむろん、暴君とは、革命戦争で打倒すべき対象だと思っている。
見せしめに処刑し、死体を晒すべき輩だと思っている。
庶民ヅラした暴君も、当然そうなるべきである。
また私はここにこそ、現代日本の「お客様民主主義」を倒壊させる穴があると思っている。
自民族中心(優越)主義や、「国のために死ぬのは尊い」などという思想を根絶させることもできると思う。 なんとなれば、こんな連中がウヨウヨいるのにもかかわらず、
それでも彼らは「上」の「主人」として扱うべきだとか、
日本人であるというだけで優れているとか、
こんな連中のために死ぬのが尊いとか、
誰も思わないだろうからである。 左翼寄りのメディアまたは個々人は、よく
「国のためになんか死にたくない」と言う。
しかしこれが「国」と「人民」を別物とし、前者を敵視するスタンスで言っているなら効果は薄い。
なぜなら人民・庶民という具体的な人間よりも、国家をはじめ理想・思想といった抽象的な概念の方が好きで魅力的に感じる人は、非常に多いからである。
どうせ死ぬならそういうことのために死にたい、と望む人間はたくさんいるのである。
しかし、国のために死ぬとはどういうことか。
それは、人をイジメ自殺に追いやりながら普通に暮らしている人間、チンピラ・半グレ・暴力団員、迷惑メール配信業者なんかのために死ぬことでもある。
そういう連中の平和で豊かな暮らしを守るため、戦って死ぬ。
こう考えれば、国のために死ぬなんてことがいかにバカバカしくアホ臭く、反道徳的ですらあるかもしれないと感じるだろう。 まさに左翼・反戦勢力はこういう観点からこそ、「国のために死ぬな」と呼びかけるべきなのだ。 彼らは、誰かのために死ぬことを完全拒否しているわけではない。
左翼ならざる人間であっても、愛国者を自認する人間であっても――
政治家・国の行政機構・上流富裕層のために死んでもいいという人はいない。
左翼も右翼も、家族を代表とする「大切な人(と自分が思う人)」のためなら死んでもいい、と(少なくとも人前では)言うだろう点で一致している。
これは要するに、「他人のためには死にたくない」との意思表示である。
そして国とは、赤の他人の集合体である。だから国のためには死にたくないし死ぬべきではない―― こう主張することで、左翼・反戦勢力はよりいっそうの共感を獲得できるだろう。
「知りもしない、赤の他人のために死にたくない」とは、右翼左翼を問わず全ての人間の真情だからである。 そしてまた思うのは、
もし我々が戦争で戦って死ぬよう決まっているとするならば、
他国と戦うより内戦を戦う方がはるかに実りあるものとなるだろう、ということである。
私はそんなに領土が欲しいとは思わないし、他国と戦争することがそんなに利益をもたらすものとも思わない。
しかし、我々の社会から「隠れイジメ殺人者」らを抹殺することは、非常に大きな意味と利益があると思う。
我々が宣戦すべきは、そういう身近な人間たちなのである。
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